1. はじめに
現代のビジネス環境において、従業員のメンタルヘルス不調と組織の生産性低下を引き起こす大きな要因の一つが「ダブルバインド(二重拘束)」です。
ダブルバインドとは、逃げ場のない関係性の中で矛盾する二つの命令を受け取り、そのどちらを選択しても「罰」や「否定」を受ける状態を指し、1950年代にグレゴリー・ベイトソンらによって提唱された概念になります。
ダブルバインドは、受け手に「逃れられない選択のジレンマ」を生じさせ、行動の自由を奪い、強い心理的ストレスを与えます。
本稿では、なぜダブルバインドが発生するのかを概観し、ダブルバインドの受け手となる部下の方にとって実践的な処方箋を提示します。
2. ダブルバインドのメカニズム
ダブルバインド理論
ダブルバインドとは、元来、家族療法において統合失調症の生成要因として研究されたものですが、上司と部下という権力勾配の存在する職場環境に驚くほど適合します。
ダブルバインドは、次の要素がすべて揃ったときに発生します。
- 第一の命令
言語によって明示的に禁止または命令されるメッセージです。
「新しい提案を出せ」「自律的に動け」「自由に意見を言ってくれ」などが該当します。 - 第二の命令
第一の命令と矛盾する、より抽象的あるいは非言語的なレベル(態度や表情など)でのメッセージです。
例えば、自由な意見を求めながら、実際に意見を言うと露骨にイヤな顔をするといった文脈や拒絶反応によって伝達される命令です。 - 第三の命令
その場から逃げ出すこと、あるいは矛盾を指摘することを禁じる拘束力です。
「この矛盾を指摘してはいけない」「ここから逃げてはいけない」という暗黙の強制が該当します。「お前たちは無能だ」というレッテル貼りもそうです。これにより、当事者は逃げ場がなくなってしまいます。 - 継続的な関係性
上司と部下、親子、恋人など、自分にとって重要で、簡単には縁を切れない相手であることです。
この構造に置かれた部下は、「提案する」ことを選べば「リスクが大きすぎる」「コスト感覚がない」と非難され、「提案しない」ことを選べば「主体性がない(無能)」と非難されます。
「Aであれ、かつ非Aであれ」という命令は論理的に実行不可能ですよね・・・
(明示的・暗示的を問わず)こんな指示を上司から受けると、部下の思考や行動が停止してしまうのも分かります。
矛盾とダブルバインドの違い
「矛盾」と「ダブルバインド」の違いは、矛盾が単純な論理的・概念的不整合を指すのに対し、ダブルバインドは複数の矛盾したメッセージが同時に与えられ、どちらを選んでも不利益が生じ、関係から逃れにくい心理的状況である点です。
– 関係の重要性・逃避困難性が高い
– 反復による学習効果がある
– 内容と関係(言語と非言語)など異なる論理レベル間の矛盾
– 矛盾の指摘や離脱が罰され、解消手段が封鎖されている
3. オーナー企業や、中堅・中小企業における構造的脆弱性
大企業と比較して、オーナー企業や中堅・中小企業ではダブルバインドが発生しやすく、かつ深刻化しやすい構造的要因が存在します。
多くの中堅・中小企業では、創業社長やオーナー経営者が強力なリーダーシップを発揮しています。そしてオーナー経営者の成功体験は、時に論理を超えた直感や「臨機応変」という名の朝令暮改に基づいているケースも存在します。
例えば「顧客第一(利益度外視)」と「利益確保(コスト削減)」を同時に叫ぶ経営者の姿勢は、経営者自身の内面では「高度なバランス感覚」として統合されています。
ですが、それを言語化されずに受け取る社員にとっては、単なる矛盾した命令の羅列になってしまいます。
経営層、特に中小企業のトップは、「会社を変えなければならない(イノベーションへの欲求)」と「失敗すれば会社が傾く(リスクへの恐怖)」という相反する感情を抱えています。
この葛藤を自己処理できていない経営者がその感情を部下に向けると、「リスクゼロで革命を起こせ」という実行不可能なダブルバインドが発生し、それが達成されない原因を「部下の能力不足」に転嫁する構造が生まれやすくなります。
大企業であれば、部署異動や転勤によって物理的に上司との関係をリセットすることが可能ですが、中小企業では組織が小さく、異動先が存在しないことが多くあります。また、人員に余裕がないため、「誰かが休めば業務が回らない」というプレッシャーがあります。
そのため、「有給は権利だから自由に使え(法的遵守)」と言いつつ、「休むなら代わりを自分で探せ、周りに迷惑をかけるな」という暗黙のメッセージが強力に作用しやすい環境になります。
そのため、大企業に比して、オーナー経営の企業や規模が小さい中小企業の方が、ダブルバインドの影響はより深刻だといえるでしょう。
4. ダブルバインドの例
ここでは、典型的なダブルバインドの例を挙げて、その心理と構造を分析します。
ケース1:「提案しろ」vs「リスクは取るな」
<状況>
経営に対する危機感を持つ社長は、幹部や社員に対し「新しい提案を出せ。従来のやり方に固執するな」と檄を飛ばす。しかし、社員が勇気を持って新規事業やツール導入を提案すると、社長は「コストが高すぎる」「失敗したらどうするんだ」「時期尚早だ」とあらゆる理由をつけて却下する。
最終的に社長は、「うちの社員は誰もまともな提案を持ってこない。無能ばかりで嘆かわしい」と公言し、社員は沈黙する。
<構造分析>
- 言語的メッセージ 「変化・革新を起こせ(提案せよ)」
- 非言語的/実質的メッセージ 「リスクを取るな、コストをかけるな(現状維持せよ)」
- 第三の拘束(人格否定) 「お前たちは無能だ」。提案すれば「リスク管理能力がない」とされ、提案しなければ「主体性がない」とされる。どちらに転んでも「無能」のレッテルを貼られる。
- 経営者が「リスクゼロ・コストゼロでハイリターン」という存在しない青い鳥を求めている。自身の「決断への恐怖」を部下の「提案の質」の問題にすり替えている。
ケース2:「勝手にやるな」vs「指示待ちになるな」
<状況>
入社3年目の社員Aは、「いちいち細かい指示を待つな。プロなら自分で考えて動け」と指導されている。ある日、Aは緊急対応として自らの判断で特例的な処理を行った。
しかし、その報告を受けた課長は激昂した。「誰がそんなことを勝手に決めたんだ。俺は聞いていないぞ」。Aが「自分で考えて動けと言われたので…」と弁明すると、「考えるのと勝手にやるのは違う」とさらに叱責された。
<構造分析>
- 言語的メッセージ 「自律的に行動せよ」
- 非言語的メッセージ 「私のコントロール下から出るな(私の承認欲求を満たせ)」
- 心理的拘束 Aは次回から相談すれば「自分で考えろ」、自分で判断すれば「勝手にするな」と言われる恐怖の板挟みになる。
ケース3:「何でも言え」vs「空気を読め」
<状況>
「風通しの良い職場」を掲げるベンチャー企業。部長は「役職関係なくフラットに意見を言い合う文化だ」と語る。
新人Cが真に受けて、「現状の長時間残業は非効率の象徴です」と発言したところ、部長の表情が凍りつき、後に呼び出された。「君の発言はチームの士気を下げる。もっと組織全体の空気を読みたまえ」。
<構造>
- 言語的メッセージ 「率直な意見を歓迎する」
- 非言語的メッセージ 「私を肯定せよ、批判は許さない」
- 心理的拘束 黙っていれば「主体性がない」、本音を言えば「協調性がない」と排除される。
5. 心理的および組織的影響の深刻度
慢性的なダブルバインドは、個人のメンタルヘルスのみならず、組織に対しても悪影響を及ぼします。
個人:学習性無力感とバーンアウト
慢性的なダブルバインドが個人に与える影響として、例えば次の事項が考えられます。
- 学習性無力感
「何をしても無駄だ」という認知が定着し、新しい業務や挑戦に対する意欲が完全に失われる。 - 自尊感情の破壊
常に否定され続けることで、「自分には能力がない」という自己認識が強化される。 - 心身症
解決されない葛藤による慢性的なストレスは、不眠、胃潰瘍などの身体症状として現れる。
組織:沈黙と衰退
個人が沈黙することで、組織全体も病んでいきます。
- 組織的沈黙
「正論を言うと損をする」「期待しても無駄」「やる気を出しても、否定される」という学習効果が組織全体に波及し、ポジティブな言動が生まれなくなる。 - 離職の連鎖
優秀で論理的な社員ほど、ダブルバインドの理不尽さに耐えられず早期に離職する。残るのは、思考停止して理不尽に従順なイエスマンのみとなり、組織の競争力は著しく低下する。
6. 解決策 従業員側の対処として
ダブルバインド状況、特に「提案しても却下され、無能扱いされる」状況にある従業員が取り得る具体的アクションをご提案します。
権利勾配が存在する上司部下の関係性の場合、正面突破は難しい場合が多いと思われます。矛盾を指摘できるくらいなら、ダブルバインドに陥っていないでしょう。したがって、ここではちょっとした工夫によってダブルバインドを回避するアプローチをご提案します。
前提条件の確認
「新しい提案」を求められた際、内容を考える前に「前提条件」を質問してみましょう。
「提案を検討するにあたり、許容できる初期投資額の上限はいくらでしょうか?」「万が一撤退する場合の損切りラインはどこに設定しますか?」など、前提条件を先に確認しておきます。
これにより、後から「コストが高い」「リスクが高い」と却下される可能性を減らすことができます。仮に却下されたとしても、「ご提示いただいた予算内での案です」と反論できますし、無能呼ばわりされる可能性も減らせるでしょう。
選択肢の提示
提案が1つだと、上司からすれば「Yes/No(やるかやらないか)」の判断、つまりリスクを取るかどうかの判断を迫られる構図になり、「No」を選びやすくなります。
そこで、以下の3案を同時に提示してみましょう。
- 松 理想的だがコストもリスクも高い案。
- 竹 現実的な落とし所の案。
- 梅 コストは掛からないが効果も限定的な案。
「社長の方針に合わせて選んでください」と問うことで、「却下」ではなく「選択」に持ち込みます。これでも決断できなければ「社長が決断しなかっただけ」と割り切るしかありません。
スモールスタート
リスク回避傾向の強い上司の場合、「本格導入」ではなく「テスト運用」として提案する方法もあります。
「全社導入の前に、まずは1つの部署だけで1ヶ月試させてください。コストはこれだけで済みます。ダメならすぐ戻せます」と提案してみては如何でしょうか。
「失敗しても傷が浅い(リスクが低い)」ことを強調し、上司の「失敗への恐怖」を刺激せずに承認を引き出すアプローチが「スモールスタート」戦術です。
メタ・コミュニケーションと記録化
- 矛盾の確認
「先ほどはAとご指示頂きましたが、今回はBとのご指示と理解しました。どちらを優先すべきでしょうか?」と、あくまで自分の理解不足という体裁で矛盾を指摘する方法もあります。
ただ、これは伝える側の部下の胆力が必要なので、実行の難易度は高いと思われます。 - ドキュメンテーション化
指示の内容を日時とともに記録し、上司に共有しておきます。
そして、提案の前に記録の振り返ったうえで、提案の説明に入ると、上司は自分の指示を思い起こして反芻できるので、指示と矛盾した判断がされにくくなるでしょう。
7. 結論
上司にとって「自分の指示が矛盾していたと認める」ことは難しいことです。
「申し訳ない。新しいことをやれと言ったが、やはり失敗が怖くて保守的になってしまった。私の迷いが指示を混乱させた」
上司が自らの過ちに気づき、こんな風に謝ることができれば、ダブルバインドは解消されます。
しかし、現実問題として、ダブルバインドは上司が意図せずに発生するものです。
(でなければ単なる嫌がらせですよね・・・)
したがって、自ら気づいて是正される期待が持ちにくい構造になっています。
前述の通り、特に中堅・中小企業においては、ダブルバインドを完全に解消することは難しいかもしれません。しかし、工夫次第ではダブルバインドを回避することが可能です。
もしダブルバインドに陥っても、思考を停止せずに、本稿で示したアプローチで乗り越えていただければと思います。皆さんの参考になれば幸いです。
