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AIが答えを出す時代、人間に残るのは「当事者になる力」

人事・総務の話題

「AIに『このデータは何を意味するのか、次にどう動くべきか』を問えば、複数の選択肢と、その実現可能性まで提示してくれるかもしれない。それでも、人には人にしかできない役割が残るはず。」

こう感じたことのある方は、多いのではないでしょうか。

生成AIが日常業務に浸透し、データ分析も企画立案も、驚くほどの速度と精度でこなせるようになりました。そうなると当然、「では、人間の付加価値はどこに残るのか」という問いが浮かびます。

本稿では、この問いを起点に考えたことを整理してみたいと思います。

結論を先に言うと、人間の価値は「何ができるか(能力)」ではなく、「何を引き受けるか(主体性・当事者性)」に収斂していく、というのが私の見立てです。

本題に入る前に、「ビジネスインプリケーション」という言葉について触れておきます。聞き慣れない方も多い言葉だと思います。

インプリケーション(implication)とは、直訳すると「含意」「暗示するもの」という意味です。ビジネスインプリケーションとは、ある事象やデータが、自社のビジネスにとって何を意味するのか(示唆)を解釈し、次にどう動くべきかを考えることを指します。本稿では、この「示唆」と「解釈」という言葉を使って説明していきます。

言い換えると、「事実(ファクト)」と「行動(アクション)」の間をつなぐ、「だから、どうする?」を考えるプロセスと言えます。

具体例で考えてみましょう。

例えば、ある飲食チェーンの店長が「来店客の平均滞在時間が、先月より15分伸びた」というデータを見たとします。この「滞在時間が伸びた」という事実そのものは、単なるファクトです。ここで終わってしまっては、ビジネスの示唆にはなりません。

ここに「事実が何を意味するのかを解釈する」という一手間を加えるとどうなるでしょうか。

  • 過去の文脈を踏まえると:先月から新メニューとして、じっくり食べる系の鍋料理を導入していた
  • 周辺情報を踏まえると:近隣に競合店がオープンし、価格競争が激化していた
  • 自身の経験を踏まえると:滞在時間が伸びると、一般的には客席の回転率が落ち、機会損失につながりやすい

これらを重ね合わせると、「滞在時間の増加は、新メニューが好評である証拠かもしれないが、同時に回転率の低下という新たなリスクを生んでいる可能性がある」という解釈が生まれます。

そしてこの解釈があって初めて、「ピーク時間帯だけ提供メニューを絞る」「テーブル数を増やす」といった、次の一手(アクション)を検討できるようになります。

このように、単なるデータや出来事(ファクト)に、文脈・周辺情報・経験を掛け合わせて「これは自社にとって何を意味するのか」という示唆を解釈する力。これが、本稿で扱う「ビジネスインプリケーション」です。

ビジネスインプリケーションとは、ある事象が起きたときに、過去の文脈や周辺情報、自身の経験を加味して、その事象が示す意味を解釈する力だと言えます。

一見すると、これはAIには真似のできない、人間固有の能力に思えます。文書化されていない社内の力学、過去の失敗から得た肌感覚、暗黙のうちに積み重ねてきた経験則。こうした「言語化されていない文脈」を踏まえた解釈は、AIの学習データには乗りにくいものです。

しかし、この「解釈する力」を過信するのも危険です。「AIには難しい」というのは、あくまで現時点の技術的な限界であって、AIの進化とともに動いていく境界線に過ぎません。

数年前まで「経験がなければ無理」とされていた業務が、次々にAIに置き換わってきた経緯を踏まえると、「経験による解釈」を過度に神聖視するのは危うい態度だと思います。むしろ、大量の周辺情報や過去事例を横断的に参照し、パターンとして”意味”を提示する能力は、人間の直感的な経験則よりも、AIの方が広範囲をカバーできる場面が増えていくはずです。

つまり、「解釈の精度」そのもので人間がAIに対抗し続けるのは、長期的には分が悪い戦い方かもしれないということです。

そこで問いの立て方を変える必要があります。

「示唆を解釈する力」そのものより、その中に含まれる「選択と責任の引き受け」の部分こそが、より強固で長期的な人間の付加価値ではないか、というのが一つの答えです。

AIは、ある事象に対する複数の解釈候補や選択肢を、人間より広い文脈から提示できるようになるでしょう。しかし、その複数の候補の中から、自社の状況・リスク許容度・組織の政治的文脈に照らしてどれを選び取るか、そしてその選択に責任を持つのは、依然として人間の仕事です。

これは能力の優劣の問題ではありません。「これを選んだのは自分で、その結果は自分が引き受ける」という当事者性の宣言そのものが、構造的に人間にしか割り当てられない役割だからです。AIがどれだけ賢くなっても、この点は変わらないはずです。

さらに一歩進めて考えると、人間の役割は「決定」で終わりません。決定した瞬間から成功に至るまでの間には、必ず想定外の出来事が起きます。市場の反応、社内の抵抗、リソースの制約。これらへの対応は、決定時には想定していなかった、新たな意味づけの連続です。

この実行プロセスは、さらに次の3つに分解できます。

  1. 状況把握・軌道修正の判断
    環境変化を読み、方針を微調整する。
    これは解釈の一種であり、AIの支援が広がっていく領域
  2. 意志・執着・粘り強さ
    諦めない、こだわり続ける。
    感情的・動機的なもので、AIには生成しようがない
  3. 他者を動かす力
    説得し、信頼を築き、周囲を巻き込む。
    対人的な力であり、これも人間固有性が強い

つまり、実行プロセスの中でも①は今後AIの支援がかなり肉薄してくる一方、②③は「選択と責任」と同じ理由――社会的な主体性の所在――によって、人間に残り続けると考えられます。

AIはどれだけ最適化に長けていても、目標そのものへのコミットメント、つまり「これを何としても成功させたい」という動機は、人間が外部から与えない限り生まれません。

「意志」は、AIには構造的に生成できない、人間固有のものだと言えるのではないでしょうか。

「意志の力」と言われても、少し抽象的に感じる方もいるかもしれません。

そこで、私たちがよく知る歴史やビジネスの事例を通して、この点を具体的に見ていきたいと思います。

ニュートンと万有引力

アイザック・ニュートンは、ペストの流行でケンブリッジ大学が閉鎖された期間、故郷にこもって研究を続けました。りんごが木から落ちるのを見て閃いたという逸話はあまりに有名ですが、本質はそこではありません。

閃きを得てから、それを万有引力の法則として体系化し、後に『プリンキピア』としてまとめ上げるまでには、長い年月と粘り強い探求が必要でした。「この現象の裏には、宇宙を貫く普遍的な法則があるはずだ」という確信と執念がなければ、閃きはただの思いつきで終わっていたかもしれません。

山中伸弥教授とiPS細胞

山中伸弥教授は、もともと整形外科医としてキャリアをスタートしました。しかし、目の前の患者を救えない無力感から、基礎研究の道に進む決断をします。

当時、周囲からは「臨床医としてのキャリアを捨てるのか」という声もあったと言われています。iPS細胞の研究は、成功の保証など何もない、地道な試行錯誤の連続でした。それでも「再生医療で患者を助けたい」という強い意志が、周囲の懐疑的な目や幾多の失敗を乗り越える原動力になったのです。

トヨタ ― 自動織機から自動車へ

トヨタグループの母体は、豊田佐吉が興した自動織機の会社でした。その息子である豊田喜一郎は、本業である織機事業が絶好調の中で、まったく畑違いの自動車事業への進出を決断します。

社内外から反対の声も少なくなかったと言われていますが、「これからの日本には自国の自動車産業が必要だ」という強い信念が、この大きな業態転換を後押ししました。もしこの意志がなければ、今日の自動車メーカーとしてのトヨタは存在しなかったかもしれません。

ソニー ― ウォークマンというイノベーション

ソニーのウォークマンも、意志の力を象徴する事例としてよく語られます。発案者は井深大氏で、「移動中でも他人に迷惑をかけずにステレオを聴きたい」という個人的な思いから、録音機能を省いた再生専用の小型プレーヤーというアイデアが生まれました。しかし「録音機能のない再生専用のプレーヤーなど売れるはずがない」という社内の否定的な声は根強く、販売部門や特約店からも疑問視されていたと言います。この逆風の中、当時会長だった盛田昭夫氏が井深氏の発案を強く支持し、みずから陣頭に立って開発・生産・発売を後押ししました。前例のない製品だからこそ、データや市場調査だけでは「売れる」という確証は得られません。それでも「これは新しい音楽の楽しみ方を作れる」という井深氏の着想と、それを事業として実現させた盛田氏の意志があったからこそ、ウォークマンは世に送り出され、世界的な大ヒット商品となったのです。

これらの事例に共通しているのは、判断材料が揃っていたから決断できたというより、判断材料が不十分な中でも「やる」と決めた意志が、結果として歴史を動かした、という点です。

仮に当時、高性能なAIが存在し、それぞれの事業やアイデアの成功確率を算出していたとしても、その数値だけを根拠に、ニュートンが研究を続け、山中教授が転身を決意し、トヨタが自動車事業に踏み出し、ソニーがウォークマンの発売に踏み切ったとは考えにくいのではないでしょうか。

むしろ「確率がどうであれ、これをやり遂げたい」という意志が先にあり、その後で行動が続いた、と見る方が自然です。

AIが不確実性の高い未来に対して算出できるのは、あくまで過去のデータに基づいた「確率」までであり、確率を超えて「それでもやる」と踏み出す意志までは、生み出しようがないのです。

もう一つ、興味深い論点があります。「こうしたい」という人の意思が働くとき、人は必ずしも最も合理的な選択肢を取るとは限りません。AIが実現可能性の高い選択肢を提示したとしても、人間はそれとは異なる道を選ぶことがあります。

その非合理さの裏側にあるのは、単なる認知バイアスかもしれませんし、まだ言語化されておらずAIに学習されていない、微弱なシグナルや個人の感覚かもしれません。

ここで重要なのは、それがバイアスか、正当な直感かを事前に見分けることではないと思います。なぜなら、ある決断が「正しい直感」だったか「単なるバイアス」だったかは、多くの場合、結果が出てからしか判定できないからです。

だとすれば、その決断が合理的な逸脱かどうかを事前に問うこと自体があまり意味を持ちません。むしろ問うべきは、その決断を、誰が引き受け、どう成功に導く責任を持つか、という一点です。

自分の決断に対して責任を引き受け、それを成功につなげていく主体は、「人」にしかなれません。だからこそ、その決断がバイアスに基づくものであっても構わない、という考え方も成立するのだと思います。

今後、AIの性能が向上するほど「良い解を出せるかどうか」で人間の価値を論じるのは、次第に分の悪い勝負になっていきます。むしろAIの進化に対して頑健な軸は、自分の意思決定に対して、どれだけ本気で当事者になれるかではないでしょうか。

AIの役割は、選択肢と実現可能性を最大限に提示すること。人間の役割は、その情報を踏まえたうえで「こうしたい」という意思を持ち、選び、責任を引き受け、結果に向けて行動し続けること。

この分業の構図は、AIがどれだけ賢くなっても崩れないはずです。だとすれば、これからの人材育成や評価制度も、「良い解を出せるか」よりも「自分の意思決定に、どれだけ本気で当事者になれるか」を軸に見直していく必要があるのではないかと考えています。

ただし、ビジネスパーソンは評論家であってはいけません。選択肢を並べて論評するだけでは、当事者とは言えないからです。これまでは、分析や指摘ができれば、たとえ自ら手を動かして決断や実行を引き受けなくても、社内で一定の存在感を発揮できる「社内評論家」的な立ち回りも、実は成立する余地がありました。

しかし、事象を分析し、選択肢を並べて評価するだけの仕事は、今後AIが最も得意とする領域です。分析と評論に留まる限り、その価値はAIに置き換えられていくでしょう。

だからこそ、「当事者になる」ということの中身をさらに分解すると、意思決定の責任を引き受けるだけでなく、それを「成功」という結果に変えていく行動までが含まれます

そしてその行動の過程では、自分一人の意志だけでは足りず、周囲の人を動かし、巻き込んでいく力が必ず求められます。つまり「人を巻き込む社会性」は、当事者になる力と並び立つ別の価値ではなく、当事者になる力を構成する重要な一要素だと言えます。

AIがどれだけ賢くなっても、選び、責任を引き受け、意志を持って人を動かしながら結果を出す。

この一連の当事者性だけは、人間の手の中に残り続けるはずです。だとすれば、私たちが磨くべきは「正しい答えを出す力」ではなく、「答えのない中で、自ら答えを引き受け、動き出す力」なのだと思います。

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