はじめに
前回の記事では、AIがどれだけ賢くなっても、「選び、責任を引き受け、意志を持って動く」という当事者性だけは人間の手の中に残り続ける、という話をさせていただきました。
その後、組織論やイノベーション研究の分野で、「ナレッジブローカー」という役割が注目されていることを知りました。異なる部署や専門分野の間に橋を架け、散らばった知識を新しい価値に変える存在がナレッジブローカーです。そう聞くと、これもまた、AI時代に人間が担うべき役割の一つのように見えます。
そこで今回は、昨今注目されるナレッジブローカーという概念が、私が考える「当事者性」と矛盾しないかどうかを検討しました。結論から言えば、両者は矛盾しません。ただし、同じものを指しているわけでもありません。
ナレッジブローカーが担うのは、主に「解釈」「橋渡し」「調整」といった機能です。これは当事者性を支える重要な構成要素ではありますが、それだけで当事者性が完結するわけではありません。前回述べた「選び、責任を引き受け、意志を持って動く」という、決断と実行そのものへのコミットメントは、ナレッジブローカーという役割の外側、つまりビジネスパーソン一人ひとりの根本的な姿勢として、別途求められるものです。この違いを念頭に置きながら、以下でナレッジブローカーについて概観してまいります。
「ナレッジブローカー」って、どんな人?
「ナレッジブローカー」と聞くと、なんだか難しそうな肩書きに聞こえるかもしれません。
ですが、やっていることはとてもシンプルです。
会社の中には、営業が知っているお客様の本音、開発が持っている技術のコツ、現場のベテランだけが分かる「なんとなくの勘どころ」など、いろいろな知識や経験が散らばっています。
ところが、それぞれが自分の持ち場にとどまっていると、せっかくの知識が別の部署や別の人に届かず、宝の持ち腐れになってしまいます。
その「散らばった知識」と「それを必要としている人」を橋渡しし、新しいアイデアや価値を生み出す人。それが「ナレッジブローカー」です。
組織論やイノベーション研究の世界では、部署や業界の境目にぽっかり空いた「情報のすきま」を埋める存在として、注目されているようです。
アメリカの研究者アンドリュー・ハーガドンは、ナレッジブローカーの本質を「ある分野で当たり前になっている知識を、それが珍しい別の分野に持ち込み、既存のアイデアと組み合わせて新しいものを作ること」だと説明しています。たとえば、ある業界では常識の技術が、別の業界に持ち込まれるとまったく新しい発明になる、というイメージです。この「知識の組み合わせ直し」こそが、組織が日々イノベーションを生み出す原動力になると考えられています。
また、知識共有というと「マニュアルを整備する」「データベースに登録する」といった作業を思い浮かべがちですが、教育学者エティエンヌ・ウェンガーは、知識共有の本質はそこではなく、「実践コミュニティ」(似た仕事や関心を持つ人たちの緩やかな集まり)をまたいだ、人と人との地道なやり取りにあると指摘しています。
ナレッジブローカーの仕事は、情報を右から左へ受け渡すだけの単純作業ではなく、異なる立場の人たちに共通の言葉や文脈をつくり、視点を橋渡しする、かなり高度なコミュニケーション力が求められる仕事なのです。
「外の知恵」を借りて行き詰まりを打破する
組織が硬直化して身動きが取れなくなったとき、外部の知恵を積極的に取り込む「オープンイノベーション」の手法として、ナレッジブローキングを体系立てて実践する動きが広がっています。
フランスのビジネススクールemlyonのローダ・デイヴィッドソン氏が紹介するフレームワークでは、大きく次の4つのステップで進めるとされています。
- 見直したい業務を決め、チームを作る:
まず「ここを何とかしたい」という業務を特定し、立場の異なるメンバーを集めてチームを組みます。 - 問題を分解する:
漠然とした課題を小さな要素に分けて考え、解決のヒントを探す範囲を広げます。 - 異業種の“達人”を探して呼ぶ:
分解した要素それぞれについて、現場の勘所を知り尽くした「外部の専門家」を探して招きます。ここが面白いところで、たとえば医師やオーケストラの指揮者など、一見まったく畑違いの人が呼ばれることもあります。 - 話を聞き、自社流にアレンジする:
外部の専門家が語る生々しい体験談にじっくり耳を傾け、デザイン思考の手法を使いながら、自社の状況に合う形に組み立て直します。
この手法がうまくいく理由のひとつは、「よそから来たアイデアなんて」と無意識に拒んでしまう、いわゆる「自前主義(Not Invented Here症候群)」を、デザイン思考のプロセスを通じてやわらげられる点にあります。
また、他の分野ですでに実証済みのやり方を取り入れるため、ゼロから試行錯誤する時間とコストを大きく減らせます。
デイヴィッドソン氏によれば、こうしたやり方は、従来型の進め方に比べて少なくとも2倍のスピードで進められるとされています。
こうした異分野を組み合わせる取り組みでは、数字で表せるデータ(アクセス解析のようなもの)と、数字では表しきれない生の声や現場の文脈といった情報を、どう組み合わせるかが鍵を握ります。
実際、多分野のメンバーが生成AIの支援を受けながら協働したワークショップを対象にした研究でも、この2種類の情報をきちんと橋渡しすると、アイデアの新しさや役立ち度、ビジネスとしての魅力といった評価が、従来型のやり方に比べて総じて高まる傾向が報告されています。
こうした橋渡しこそ、データがあふれる今の時代における、ナレッジブローカーの主戦場だと言えるでしょう。
※紹介した評価データは、一次資料の数値を正確に確認できなかったため、具体的な数字は割愛し、傾向のみをご紹介しています。
生成AIが変えつつある「知識管理」のかたち
これまでの「ナレッジマネジメント」は、かなり面倒な作業を伴うものでした。
「情報をシステムに登録する手間」「あとから欲しい情報を探し出す難しさ」――こうした悩みは、多くの会社で共通していたのではないでしょうか。
生成AIの登場は、この状況を大きく変えつつあります。文章を書くのが苦手な人でも、AIに話しかけるように入力するだけで、それなりに整理された知識として残せるようになってきたからです。
ただし、AIがどれだけ賢くなっても、「言葉にしにくい知恵(暗黙知)」のすべてを文章にできるわけではありません。この課題意識を踏まえて、経営学者の野中郁次郎氏らが提唱した知識創造の理論「SECIモデル」を、生成AIの時代向けにアップデートしようという「GenAI SECIモデル」という考え方が、最近提案されています。
※これはまだ2026年に発表されたばかりの、査読前の研究提案です。似た問題意識から複数の研究者がそれぞれ別のモデルを提案しており、学術的な決着はついていない段階のアイデアとしてご紹介します。
このモデルのユニークなところは、「デジタル断片知識」という考え方を持ち込んでいる点です。難しく聞こえますが、要は「まだきれいに文章化されていない、断片的な気づきやメモ」を、AIの力で拾い上げて活用しよう、という発想です。
現場の知識を、①きちんと文章になっている知識、②言葉にはまだなっていないが説明すればできる知識、③体で覚えていて言葉にすることが難しい知識、という3段階に分けて考えると、これまでのシステムでは①しか拾えなかったのに対し、生成AIの自然な言葉のやり取りの力を使えば、②の「まだ言葉になっていない知識」まで拾い上げられる可能性が出てきた、というわけです。
一方で、③の「体で覚えている感覚」や、人と人との関係性の中に埋め込まれた「その場にいないと分からない空気感」のようなものは、AIだけでは拾い上げるのが難しいとされています。
そこで大切になってくるのが、熟練した専門家の持つ「こういう場合はこうする」という文脈やコツを、AIに継続的に伝えていく仕組みです。高額なAIの追加学習をしなくても、専門家の経験をAIの受け答えに反映させる方法として注目されており、ナレッジブローカーには、こうした仕組みを日々アップデートしながら、人とAIが同じ状況認識を持てるように調整していく役割が期待されています。
AIの判断をそのまま信じていいのか?
意思決定にAIが深く関わるようになった今、人間とAIシステムの間に立って調整する「アルゴリズム・ブローカー」という存在の役割も注目されています。
とても示唆に富む研究があります。オランダ警察が、犯罪予測AIを長期間導入した現場を丹念に観察した調査です。この研究では、AIの分析結果を、実際にパトロールや判断を行う警察官に伝える「インテリジェンス・オフィサー」という職種の人たちが、時間の経過とともにどう変化していったかが描かれています。
- 最初は「伝達者」:導入したばかりの頃、彼らはAIが出した予測結果を、そのまま現場に届けるだけの役割でした。
- やがて「解釈者」に:しかし、AIの判断ロジックは中身が見えない「ブラックボックス」です。予測結果だけ渡されても現場は困ってしまいます。そこで彼らは、AIの予測を警察の実務や地域の治安事情に照らして「これはこういう意味です」と説明する役割を担うようになりました。
- さらに「キュレーター」に:慣れてくると、複数の予測情報のうち、どれを重視し、どれを見送るかを、自分たちの判断で選び取るようになっていきます。
- 最後は「代替」まで:AIの予測が現場の実感と明らかにズレている場面に何度も遭遇するうち、ついには自分たちの専門的な経験を優先し、AIの予測結果そのものを差し替える判断まで下すようになりました。
この一連の流れは、AI分析の技術がどれだけ進歩しても、最終的に「実務でどう使うか」を決めるのは、やはり人間の専門家による解釈と判断だ、ということを物語っています。
逆に、こうした人間による調整を挟まずにAIの提案をそのまま受け入れてしまうと、思わぬ落とし穴にはまることがあります。
AIが予想外の判断を示したとき、深く考えずにそのまま従うか、逆に頭ごなしに無視してしまうか――どちらのパターンも、大事なミスや偏った判断を見逃す原因になりかねません。また、自分の考えた進め方がうまくいかなかったとき、「AIのロジックのどこが間違っているのか」を突き止めることにばかり気を取られて、本来解決したかった問題を見失ってしまう、というケースも報告されています。
ナレッジブローカーには、こうした人とAIの協働がうまくいかなくなる事態を未然に防ぎ、健全な意思決定の仕組みをデザインする「安全弁」としての役割が期待されているのです。
これからのAI社会で、ナレッジブローカーはどんな役割を担うのか
フィンランドのヘルシンキ大学が行った未来予測プロジェクトによると、ナレッジブローカーの本質的な仕事は、組織の中で立ち往生の原因になる「摩擦、行き詰まり、限界点、情報の欠落、記憶の喪失」といった小さなつまずきに気づき、それを新しいチャンスに変えていくことにあるとされています。
単なる「顔の広い人」ではなく、技術の最前線と、それを使う人間の理解との交差点に立ち、両者の摩擦を和らげる「内側にも外側にも立てる人」というのが、この研究での見立てです。
同プロジェクトでは、ブローカーを対象にしたワークショップでの議論をもとに、その働きを「加える」「つなぐ」「まとめる」という3つの大きな方向性のもと、12の役割として試験的に整理しています。
| 大きな方向性 | 役割 | どんなことをする人か |
| 加える | 翻訳者 | 専門分野ごとの言葉の違いや、AIのロジックを、お互いに分かる言葉に置き換える |
| 加える | 文脈化する人 | 抽象的なデータやAIの答えを、現場の実情に合わせて調整する |
| 加える | 解釈する人 | 専門家の複雑な考えやAIの読み取りにくいパターンを、具体的な行動に落とし込んで説明する |
| 加える | まとめる人 | バラバラな意見やデータを整理し、みんなが納得できる形にまとめ上げる |
| つなぐ | 引き合わせる人 | 異なる専門性を持つ人同士、あるいは人と合いそうなAIツールを結びつける |
| つなぐ | 動かす人 | 既存の枠にとらわれず、新しい取り組みのきっかけを作る |
| つなぐ | 気づく人 | ちょっとした会話や情報の詰まりから、隠れた課題にいち早く気づく |
| つなぐ | 掛け合わせる人 | まったく畑違いの分野のアイデアを組み合わせ、新しい発想を生む |
| まとめる | 気にかける人 | 知識をやり取りする裏にある人間関係の摩擦をやわらげ、学びやすい雰囲気を保つ |
| まとめる | 引き出す人 | 一人ひとりの持てる力を発揮できるよう、環境づくりや育成を後押しする |
| まとめる | 変える人 | 「当たり前」を疑い、新しい考え方や道具を実際に取り入れる |
| まとめる | 支える人 | 知識を共有する人たちを、気持ちの面でも実務の面でも支え、連携を強める |
こうして並べてみると、これからのAI社会でナレッジブローカーが活躍する場面は、最先端の技術開発の現場から、日々の職場づくりまで、思いのほか幅広いことが分かります。
家具メーカーのオカムラが実施した「はたらき方」に関する調査でも、人口減少や人手不足、技術やノウハウの引き継ぎといった日本企業の悩ましい課題を解決する鍵は、こうしたナレッジブローカー的な振る舞いを、社員一人ひとりが「意識すること」にあると指摘されています。
他部署との何気ない会話や、社外での学び(いわゆる越境学習)、あるいは業務時間中のちょっとした雑談を通じて、自分とは違う価値観や状況を汲み取り、それを自分の職場に持ち帰る。この積み重ねが、組織の硬直化を防ぎ、変化への対応力を高めていくというわけです。
特に、対面でのちょっとした雑談は、デジタルの記録には残らない繊細な文脈や感情――いわば「関係の中でしか分からない暗黙知」――を心に留めておくための、意外と侮れない大切な機会なのかもしれません。
まとめ:AIとの「共進化」のカギを握る存在として
AIエージェントの普及などにより、社会の自動化・自律化はますます加速していくでしょう。そうした中で、AIの持つ統計的な強みを活かしながら、人間ならではの創造性も失わないためには、「ナレッジブローカー」という役割を、誰かの片手間の仕事として片付けるのではなく、明確な役割として定義し、評価や権限を伴う正式な機能として組織に組み込んでいくことが求められます。
どれほど優れた答えをAIが示してくれても、それが実際のビジネスや社会の課題解決につながるのは、最終的に人間がその答えに「納得」し、実行に移したときだけです。
ナレッジブローカーは、AIによる機械的な処理と、人間の内面的な理解とをつなぎ、断片的な知識を組織のみんなが共有できる「共通の理解」へと結晶化させていく、いわば触媒のような役割を担っていると言えるでしょう。
ただし、ここまで見てきたように、ナレッジブローカーが担うのはあくまで「解釈」「橋渡し」「調整」という役割です。前回の記事で述べた「選び、責任を引き受け、意志を持って動く」という当事者性の核心そのものは、この役割の外側、つまり一人ひとりのビジネスパーソンが自らの決断と実行に対してどう向き合うかという、もっと根本的な姿勢にかかっていると私は考えています。
これからの知識経営に必要なのは、AIによる高速処理に頼りきることだけではなく、こうした人間ならではの多面的な働きを組織として後押しし、AIとの「共進化」を促していくことではなのかもしれません。

